第2019回例会[2018年7月27日(金)]

会長の時間

辻林一郎 会長

 

ガバナー補佐の藤井秀香様、本日はガバナー公式訪問のための事前訪問ありがとうございます。例会、そして例会終了後のクラブ協議会、よろしくお願いいたします。

約3週間、どうなっているのかと心配になるほどの猛暑が続いています。今日は少しましですが、熱中症対策を十分に心がけてください。また、「平成30年7月豪雨」義捐金箱をご用意させていただきました。ご支援をお願いします。

今日は、ロータリーソング「奉仕の理想」についてのお話をさせていただきます。

日本では、1920年(大正9年)10月に東京ロータリークラブが誕生し、続いて大阪、神戸、名古屋、京都、横浜、京城、大連、奉天、ハルピンと設立されました。例会での歌は、アメリカで歌われているロータリーソングを英語のまま歌っていたようです。

1930年(昭和5年)、神戸での地区大会において、奉天ロータリークラブの提案による「日本語によるロータリーソングを作ること」が採択されました。

一方、国際ロータリークラブ連合会会長が、「ロータリーは世界のロータリーであって、アメリカのロータリーでないと思う。なぜ日本語の歌を歌わないのか。」と説いて、日本語のロータリーソングを作ることを支援されたそうです。

1933年(昭和8年)、村田省蔵氏(大阪ロータリークラブが創立された時のチャーターメンバー)がガバナーに就任し、1934年(昭和9年)の名古屋での地区大会で、歌詞を公募して選考し作曲することを約束されました。

メンバーへの歌詞の募集が始まり、当時京都ロータリークラブの前田和一郎氏が応募し当選しました。作曲は、東京ロータリークラブに東京音楽学校(現在の東京藝術大学)教授であった萩原英一氏というピアニストが入会されていましたので依頼されました。「奉仕の理想」の誕生です。

1935年(昭和10年)、京都で第70区地区大会が開催され、当選した4作品が発表されます。その一つが「奉仕の理想」です。第一位となった「旅は道づれ」は、作曲の一部に盗作があったため、後に失格となり、第二位の「奉仕の理想」が、第一位に繰り上がりました。

 奉仕の理想に 集いし友よ

 御国に捧げん 我等の業

 望むは世界の 久遠の平和

 めぐる歯車  いや輝きて

 永久に栄えよ 我等のロータリー ロータリー

ところが、この歌の作詞した前田氏の原詩は、「御国に捧げん」ではなく「世界に捧げん」だったのです。

当時の村田省蔵ガバナーは、国粋主義的な考えを持った愛国心の強い方であったようです。歌詞の中の「世界に捧げん」を「御国に捧げん」と変えなければ、当選は無効という通達を出されたのです。前田氏は泣く泣く変更を承諾した経緯があります。ロータリーの組織を守ろうとした策であったのかも知れません。また、この時代の背景を如実に物語っているようにも思えます。

前田氏は、亡くなる前「もしできることなら何時か原詩の「世界に捧げん」に戻していただければありがたい。」と遺言されていたようです。

ロータリーソングはロータリーの歴史をみても、親睦を深める手段の一つであります。80年間以上も例会などで歌い継がれています「奉仕の理想」は、自己の職業奉仕を通じて世のため、人のためになるように、世界平和が永遠に続くことを願っている歌詞であり、曲は厳粛な空気を醸し出しています。

卓話

「私の履歴」

山本 圭一郎会 員

山本 圭一郎会 員

岩出正次会員、奥忠道会員、岩出善久会員の推薦で入会させて頂き、本当にありがとうございます。私は1968年(昭和43年)1月23日生れの50歳です。地元岸和田市内で造園業を営む家庭で小中高と平凡に育ちました。勉学は得意ではありませんでした。スポーツはサッカーを中学時代に、大阪府ベスト16が最高成績でした。その時の夢は、高校サッカー選手権大会の出場でした。スポーツで高校進学の話も頂き、練習等にも参加しましたが、結果として夢はかないませんでした。それ以降は自然に家業に就き現在に至ります。サッカーでは、負けん気と目標に向かって、あきらめず努力するという点は得られたものと思っております。

27歳で結婚して息子が二人おります。大学3年と1年です。二人には特に家業を継いで欲しいと思っていません。好きな事をして欲しいと思っております。

25歳から40歳まで、青年会議所に在籍しておりました。地域で活躍する先輩後輩と中味の濃い交流ができ、自身の財産になりましたし、考え方の幅も広がりました。家業にも大いに反映できました。ロータリークラブ入会の機会を得たので、さらにその経験を積んで行きたいと思います。そして、その結果として社会貢献など、その目的を果たせるよう努力しますので、ご指導ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。ありがとうございます。

 

 美馬 知幸 会員

今回、名誉ある岸和田東ロータリーに入会させていただきました美馬知幸と申します。この度は藤井秀香会員・奥忠道会員、ご推薦いただきありがとうございます。昭和52年4月26日生まれですが、年齢は差控えさせていただきます。

簡単に自己紹介させていただきますと、現在、私は父と二人暮らしですが、歳を取った親子が一つ屋根の下で暮らしますと、喧嘩したりお互いわがままになったりするわけです。そんなときは現実逃避するための別宅を設けているので時々一人暮らしになったりします。

幼少期の私は、好奇心旺盛でヤンチャな性格でしたが、小学校高学年のときに両親のスッタモンダがあり、母親と一緒に三重県に転校することになりました。そこではなかなか馴染むことができず内向的になり、年齢を重ねるごとにおとなしい性格へと変わっていきました。

高校進学で大阪に戻ったのと同時に、父が体調を崩し身の回りの世話が必要になったため、岸和田に戻り父と一緒に暮らすことにしました。大学に進学をしたものの、自分のやりたいこととはかけ離れていたことに気づき、自分の気持ちの中でこのままでいいのかという葛藤が生まれ大学を中退しました。その後、幼少期から当たり前のように見てきた医療用酸素を扱う父の仕事を手伝いたいという想いが強くなり、現 株式会社エアーメディックスに入社しました。

父は二代目で祖父の代から続いていた美馬商事株式会社を株式会社エアーメディックスに社名を変更し、平成16年4月に父の夢でもあった自社の充填工場を手に入れたとき初めて父が涙を流していたのを見て、それまでどんなに頑張っても周りの従業員からは自分を「社長の娘」という甘い目でみられているんだろうなとネガティブに感じていた自分が恥ずかしくなり、そんなことを考えている暇があったら周りを見返すぐらい働いて父と二人で会社を大きくしていくんだと気持ちが強くなりました。

その後、会社は順調に業績を伸ばしていきましたが、父が10代の頃から面倒をみてきて一番信頼していた当時の営業部長が反旗を翻し、同業の新会社を設立。同時に離れていった従業員も少なからずいたため、会社の業績は一時的に落ち込みました。

私自身も信頼をしていた人物だっただけにショックは大きかったですが、この一件で社内に危機感といいますか、良い意味で緊張感を持つことができ会社に一体感が生まれ、経営者・従業員一同が一丸となって会社を盛り立てていく雰囲気になって落ち着いています。

足早に自己紹介させていただきましたが、今回岸和田東ロータリーに入会させていただいたことで色々な業種の方と繋がりを持って視野を広げていき自分自身成長していきたいと思いますので、皆様方、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します。

 

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