第2034回例会報告[2018年11月30日(金)]

会長の時間

辻林一郎 会長

卓話講師としてお越しくださいました藤波勝三様、後ほどよろしくお願いいたします。

2017~18年度「100%ロータリー財団寄付クラブ認証のバナー」が届いています。

南輪会ゴルフ大会に参加していただきました皆様、ありがとうございました。

 

現在、気象庁は、「異常天候早期警戒情報」を発表しています。

「異常天候早期警戒情報」とは平年から隔たりの大きな天候が続くと、社会にさまざまな影響があります。このような現象の発生の可能性について、できるだけ早い段階で発表する予測情報が「異常天候早期警戒情報」で、気温・降雪量を対象として発表しています。

「異常天候早期警戒情報」は、原則として毎週月曜日と木曜日に、情報発表日の5日後から14日後までを対象として、7日間平均気温が「かなり高い」若しくは「かなり低い」となる確率が30%以上と見込まれる場合、又は7日間降雪量が「かなり多い」となる確率が30%以上と見込まれる場合に発表となります。

11月26日に「高温に関する異常天候早期警戒情報」が北海道、東北地方を除く全域に情報発表されました。

 

本日は、2週間ぶりの例会ですので、色々なニュースがありました。

国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、日本政府提案のナマハゲ・アマメハギなどの類似9行事を加え、10行事からなる「来訪神」を無形文化遺産に登録決定。

最先端の技術「ゲノム編集」研究が進み、中国の研究者から技術的な課題も残る、生命倫理の定見への攻撃ともとれる驚きの発表がなされたこと。

パリで11月23日に行われた博覧会国際事務局(BIE)総会で、2025年の国際博覧会(万博)が大阪で開催されることが決定。

 

今日は国際博覧会(万博)について少し触れたいと思います。

オールジャパンで誘致に取り組んだ成果です。

日本に投票したというアフリカの政府関係者は、「日本の企業は長い間、開発を支援してくれている。日本政府も同様だ。」、「日本は言ったことを必ずやってくれる。アフリカの開発途上国から信頼されている。」などと明かされたそうです。

ロシアが分担金を肩代わりしたとの情報も流れ、日本が疑心暗鬼に陥ったこともあったようですが、継続は力なりと言われるように、実績への信頼によって引き寄せられた勝利であったように思います。

テーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」、2800万人の来場者と2兆円近くの経済波及効果を見込んでの開催となります。

 

登録博覧会(登録博)と認定博覧会(認定博)の2つに大別され、登録博は、

1995年以降は5年ごとに開催されることになっています。一方の認定博は、登録博の間に開催されるものです。

日本での博覧会は、次のとおりです。

1970年 大阪万博 テーマ「人類の進歩と調和」

1975~76年 沖縄海洋博 テーマ「海-その望ましい未来」

1985年 つくば科学万博 テーマ「人間・居住・環境と科学技術」

1990年 大阪花博 テーマ「自然と人間との共生」

2005年 愛知万博 テーマ「自然の叡智」

 

さて、忘れてはならない歴史があります。

1940年開催となっていた幻の東京万博です。皆さんご存知でしょうか。日本初の万博として開かれる予定だった「紀元2600年記念日本万国博覧会」、テーマは、「東西文化の融合」で、関東大震災(1923年)からの復興と国威発揚が目的でした。ところが、1938年7月に政府が延期を決定します。会場建設は始まり、入場券も販売されていましたが、日中戦争(支那事変)の長期化や日本の国際的な孤立で諸外国の参加が見込めなくなったためです。

そして、東京オリンピック(東京市で開催される予定だった第12回夏季オリンピック)は、日中戦争(支那事変)のため中止(1938年7月にその実施の中止を決定)されました。

一方、日本のロータリーに対する批判もますます激しさを増して行きます。クラブ旗の左隣に国旗を掲げ、月初めに国歌を歌うという、現在では普通の例会風景も国家への忠誠心を示すために考えられたとも言われています。

ドイツ42クラブ、オーストラリア11クラブ、イタリア34クラブが解散。

日本も1940年8月8日の静岡RCに続き、大阪、岡山、京都、広島、高知、金沢などと解散し、9月11日には東京RCがRI脱退という歴史をたどっています。

卓話

「岸和田城について」

岸和田ボランティアガイド<br />
元会長 藤波勝三様<br />
(担当:河畑啓造会員)

岸和田ボランティアガイド
元会長 藤波勝三様
(担当:河畑啓造会員)

岸和田に本格的な天守のある城が築かれたのは慶長2年(1597)小出秀政と言われています。

これより少し遡る天正13年(1585)、これまで再三にわたり紀州の根来衆雑賀衆による岸和田攻めに、遂に羽柴秀吉が岸和田に入り根来衆に猛攻撃を懸け根来寺を焼いてしまった。その後、秀吉の叔父、小出秀政を但馬出石より岸和田に入れました。

初めは4千石であった秀政は文禄3年(1594)1万石に、翌4年には3万石となり、この頃より天守を築き始め慶長2年(1597)に完成しました。この城は石垣5mの上に鯱(しゃちほこ)までの高さが18間(32.4m)5重の屋根を持つ本格的な城です。

その後、小出氏3代続いた後、元和5年(1619)丹波篠山より松平(松井)康重が入城し、当時かなり荒れていた城を大改修しました。更に松平氏2代続いた後、寛永17年(1640)、摂津高槻より岡部宣勝が入城し城域、城下町の拡張整備をしました。

しかし、187年後の文政10年(1827)11月20日午前4時の激しい落雷により天守は炎上してしまった。焼失後、幕府に復興願を届け出たが、そのまま再建されず明治を迎え明治4年、新政府が出した廃城令により城門・城壁・隅櫓等全ての建造物は壊されました。

その後、時は流れ昭和29年、福本太郎市長の時、岸和田市立図書館建設の名目で現在の天守が復元されました。昔の石垣5mの上に高さ22m、3重屋根、鉄筋コンクリート造りの立派なお城です。戦後天守が復元されたのは富山城についで全国で2番目です。物資不足の折、市民の協力などにより総額3,460万円で建てられました。設計は池田谷久吉、施工は岩出建設(株)です。

その後、昭和44年城門・城壁・隅櫓が再建され郷土資料館となり、昭和50年図書館の移転により名実ともに岸和田城となった。

又、平成29年4月6日「城の日」に日本城郭協会が発表した「読日本100名城」に選ばれました。機会があれば前庭(八陣の庭、平成26年府下5番目の国の名勝)と共に天守閣展望台からの素晴らしい眺望を是非ご覧下さい。

尚、岸和田城の別称は「猪伏山千亀利城(いぶせやまちきりじょう)」、ちきり(滕)とは機(はた)のタテ糸を巻く器具のことで、本丸と二の丸を連ねた形がちきり(滕)に似ていることに由来しており、今の千亀利は当て字と言われています。

トピック

岸和田市国際親善協会「地球どんぶり」

「伊賀上野バスツアー」参加報告

岸和田東RC40周年記念事業 社会奉仕部門実行委員長 坂東桂子

当クラブは40周年記念事業の一環として岸和田市国際親善協会の地球どんぶりの活動を支援しています。11月18日(日)、晴天に恵まれ、伊賀忍者屋敷、上田城を楽しんで来ました。忍者の扮装に着替えてのツアーはとても楽しかったようです。いろいろ説明するスタッフの心配りに感動しました。参加者は外国人33名、スタッフ12名、当クラブから坂本道子会員、坂東の47名でした。